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オヤジとおふくろ「素人のクソ度胸」

文藝春秋編 1992年5月


 エジプトのカイロで今、もっとも有名な日本女性は日本大使夫人でも蝶々夫人でもない。何を隠そう。わが母、小池恵美子である。
 カイロ大学留学中の私を訪ねてきた母は突然、日本料理店を開きたいと言い出した。カイロ唯一の日本料理店でキャベツ入りのすき焼きを食したことから一念発起したようだ。
 「これまではやりたいことがあってもできなかったでしょ。これからは好きにやらせて」
 六十の声を聞くというのに、これから苦労することはないと家族揃って反対したが、一度言い出したらトコトンやる人である。重大発言から一年後には市内からちょっと離れた住宅地に日本間付きの料理店を開店していた。
 専業主婦から料理屋の女将編の一大変身である。それも海外での出店となればプロでも二の足を踏む。板前の確保。多くの方に迷惑を掛けながらも実現してしまったのである。英語もアラビア語もまるでダメ。しかし、幸か不幸か、貿易会社を営んでいた父が事業に失敗したことから、強力な助っ人として加わることになった。「油屋が何で水商売せなあかんねん」とぶつくさ言いつつ、攻守をかえて銀行や税関との交渉を担当するようになった父を見るのは複雑な思いでもあった。
 せっかく私が日本に戻ったのに、今度は両親がカイロ暮らしを始めた。「ミイラ取りがミイラになった」わけである。
 大阪出身ということから「なにわ」と名付けた店も今年、十一周年を迎えた。開店当初は素人の悲しさで板前の反乱にあったり、砂漠の真ん中で交通事故に遭って肋骨を折るなど、七転八倒の連続だった。
 そもそも私がカイロへの留学を思い立ったのも母の影響が強い。
 「結婚を目的にしちゃダメ。夫がいつ交通事故であの世に行くかわからないでしょ。いつでも自分で歩けるようにしておきなさい」
 初恋の味も知らない小学生の頃から私はこう言い聞かされてきた。自立するためには、「プロを目指しなさい。中途半端はだめよ」。
 外国語雑誌を参考に母が作ってくれた子供服は神戸のセンター街でも売っていないしゃれたものだった。人と同じじゃつまらないと言うのだ。そんなことから、人と違ったところで勝負する、そして自立を目指すという私の方針が固まっていった。アラビア語通訳を目指してのカイロ留学を心から応援してくれた。
 出身は兵庫県の赤穂。塩田持ちの小川家で、父親は八馬気船の重役も務めた。ただし父親は放蕩を極めて若死し、残された母親の苦労を見て育ったという。青春時代は戦争で真っ暗。同じ赤穂の縁で結婚した夫(私の父)は実業家とはいえ、政治好きで事業はそっちのけ。母は冷徹なまでの人生哲学は危機感から出たもので、娘としてもわからないでもない。「やってみなくちゃ、わからない」が口癖の母からパイオニア精神を学んだ。





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