ボタン
プロフィール 基本理念 活動記録 コラム・論文 アルバム ムービー メルマガ 後援会:フォーラムユーリカ


9月 女性セブン7月23日号掲載
「宣告一瞬!子宮喪失」
       母になる夢
破れて
wseven1.jpg (15035 バイト)
wseven2.jpg (18779 バイト)

盲腸の診断

 昨年12月3日未明、突然、議員宿舎にいた小池さんの下腹部に、重くて鈍い、厳しい痛みが走った。
「それまでもだいたい2か月か3か月に一度、夜になると、痛みがありました。でも、いつもなら、携帯用保温剤をお腹に当てていれば、なんとかしのげました。翌朝にはケロッと治って、もう仕事をしていたなんてことが、しょちゅうあったんです。
 だから、そのときも、慌てて保温剤を探したけど、周囲には見あたりませんでした。痛みは治まるどころか、ひどくなる一方。でも、救急車を呼ぶのも、何か、大げさかなあという感じがして・・・」
 とにかく、朝が来るまで、じっと我慢した。朝9時になるのを待って秘書を呼び、そのまま車に乗せてもらい、都内のある病院へと運んでもらった。病院につくまではわずか5分。しかしこの5分が30分にも1時間にも感じられた。お腹を押さえ続けた手が体にめり込むほど、痛みはひどくなっていた。
 婦人科で検査した結果、”盲腸”という診断。でも「そんなことはないはずだ!」と思った。これまでに何度も経験した下腹部の痛みと同じだったからだ。
 痛みに襲われるようになったのは3〜4年前から。定期検診の人間ドックで「筋腫の気がありますよ」と何度か指摘はされていた。ただ「これは多くの女性がもっているものだから、心配しすぎることはありません「ともいわれていたので、ほったらかしにしていた。
 だから、下腹部の痛みが激しくなったとき「筋腫が悪化したに違いない」と、婦人科へ向かったのだ。
 しかし、病院では結局、婦人科から外科へとタライ回し。外科の医師にも「典型的な”盲腸”だ」とダメを押された。そして、その日のうちに入院し、手術を受ける。
確かに虫垂炎はあった。しかし、そのために、もっと大変な体の異変を見過ごしてしまったことが、後に小池さんに重くのしかかることになる。
 退院したのは、1週間後。ちょうどそのことは年の暮れということもあり、議員活動が多忙だった。何しろ、自らが企画した『経済討論会』の企画やアレンジ、出席者集めに追われていたとき。朝8時から深夜まで、会議や委員会で、法案を審査したり、質問に立ったりしなければならない。年が明けても、後援会の活動報告などで、全国をかけずり回った。
 しかし、その間も、重くて鈍い下腹部の痛みは、定期的に彼女を襲い続けた。階段などを足早に上がったりするとフラフラッと貧血や目まいも襲ってきた。
 あまり症状の激しさに、まっすぐ歩くことすら、できないこともあった。手術後は、長時間の仕事が苦痛にもなっていた。
「我慢するしかなかったんですよね。周りはみんな男性ばっかりだから、わかってもらえないし。結局”だから女はダメなんだ”っていわれるのが悔しかったし・・・」
 3月にはいると、生理が2回あった。地元の女性秘書に「小池さん、おかしい」といわれ、ハッとした。
「それまで体調がすぐれないことがあっても、”盲腸”でお腹を切ったのが原因だと思っていたんです。でも、やっぱり、これは盲腸ではない。絶対におかしい!と思ったんです」
 再び、病院の婦人科を訪ねたのは4月10日のことだった。

怒りと絶望

 虫垂炎の手術以来、小池さんの体調を気遣った母親が、生活をともにしてくれていたが、病院への付き添いは、その母に頼んだ、一人では、病名を聞くのがこわいという不安があった。たとえ深刻な病名を告げられても、母にならひと思いにそれを伝えられるとも思っていた。
 そしてm新たに小池さんの診察にあたったのは婦人科のベテラン医師。彼は彼女の下腹部を触っただけでこともなげにいった。「子宮筋腫です。はい、子宮を全部切りましょうー」ショックだった。一瞬の宣告、まさに青天の霹靂だった。
「先生が軽くおっしゃれば、おっしゃるほど、こっちにとってはガーンという重たいものがありました。何か”これで終わりなのかな”っていう気がして・・・」
 同じ病院の同じ婦人科で、先生は違うけど、同じ下腹部を触っていながら「なぜ、盲腸のときに、わからなかったのか」という怒りがこみ上げた。「子宮の摘出以外に、治療する方法はないのか?」などと、医師に食ってかかったりもした。とにかく、わらにもすがる思いだった。
 しかし、医師は論理的な説明を加えながら「全摘」を繰り返すだけ。それでも「切らずに済む方法はありませんか?」と聞きたかった。しかし、こちらには医学的知識があるわけでもし、最終的にはとうとううなずくしかなかった、何度も何度も確かめた後の結果だけに、目の前が真っ暗になった。
 議員の立場になってから子供を生んで育てたいという夢も、もうかなわない。絶望感も覚えた。
 宣告を受け、診察室を出た彼女の表情があまりに沈んでいたのか、母親がすぐ駆け寄ってきだ。
「どうだった?」
「子宮筋腫。全部きらねければいけないっていわれた」
「えっ、子宮を全部・・・」
 母のショックも大きかった。黙り込む母の顔を見ると、小池さんの目から思わず涙がこぼれた。あふれる涙をこらえる小池さんの背を、母は無言でさすってくれた。
「恥ずかしいんですけど、泣いちゃいました。ほんのちょっとですけどね。でも、やっぱり寂しくて、こらえきれなくて・・・」
 そのときを思い出したのか、小池さんは、そこまで話すと言葉を切って、ふうっと肩で息をついた。

 子宮筋腫とは、子宮の筋肉に発生する良性の腫瘍、30才以上の女性の約2割は、筋腫を持っているといわれる。ただ、筋腫を放っておくとスイカのように大きなコブになって死に至るケースもあるという。子宮全摘の際、卵巣までもとってしまうと女性ホルモンの分泌バランスが崩れ、骨粗鬆症になりやすい。それを避けるため、卵巣を残すことが多いが、生理がとまってしまうなど女性にとってはある意味で残酷な話ではある。
 下平クリニックの下平和夫院長(産婦人科、小児科)がいう。
「症状としては、月経痛や大量の出血、便秘、貧血、不妊症など。もし、出血を放っておくと、心筋拡張を起こし、心臓を極端に衰弱させ、さらに悪化すれば、大事に至ることすらあります。治療方法は、筋腫を手術で摘出するか、薬で小さくするかの2通り。人によって違うのではっきりとはいえませんが、小池さんの場合、痛みが3〜4年前からあったというから早期の段階で発見できていれば薬で治療できたかもしれません」
 医師の宣告に一度はうなずいたものの、手術日までの約1カ月半の間、小池さんの心はなおも揺れていた。
 子宮を取らない方法は、ないものかとアメリカに住む知り合いの産婦人科医師にも相談してみた。すがる思いで、別の治療法を聞き出したかった、返ってきた答えは「卵巣までとったほうがいい」というものだった。あきらめきれず、名乗らないでできる電話相談で、自分の症状を確かめたこともあった。しかし、結果は変わらない。「子宮全摘」が避けられないということがはっきりすればするほど、後悔の念もわいた。
「私も強い意志さえあれば、結婚もしたでしょうし、出産もしただろうと思うんです。でも、その意志よりも、仕事に専念する意志のほうが強かった。
 まさか、こんな結末になるなんて・・・。ハッピーじゃないですよね」
 21才で結婚し、その後、離婚。キャスターから政治家に転身しても女としての幸せはもちろん視野にいれていた。
 子供を生みたいという思いはいまだに心に残っている。それだけに、後悔が残る。だから、入院の準備を進めながらも、「まだ断ることはできる」「手術はやめよう」という思いが何度も頭をよぎった。
 自分なりにいろいろ調べて、ホルモン療法などの治療法もあることも知った。
「でも、私の場合、その段階を通り越していて、摘出しなければ治らない。もう、子宮を取るしかないんだといい聞かせました。その最後の踏ん切りがつくまでには、何だかんだで1カ月ぐらいはかかりましたね」
 宣告から手術までの間は、国会開会中で、しかも参議院選前。やることは、山ほどあった。
 アメリカ数都市での講演旅行、地元への挨拶回り。どれも、断るわけにはいかない。
 彼女は入院前、こなせる仕事はすべてこなした。むしろ、そうやって、忙しさに気を紛らわせていたのかもしれない。
 そして、すべての懸案を処理して入院したのが5月26日。手術前日のことだった。その夜は、午後9時の就寝時間を過ぎて消灯した後も、頭がさえて、なかなか寝つけなかった。付き添いの母親も面会時間が終われば帰ってしまう。しばらくはいれないお風呂も、病院の早い夕食も済ませ、ベッドに横たわると、何もすることはなかった。
「後は手術を待つだけ」「もう、まな板の上の鯉」
 翌日のことは考えないようにしよう、何か別のことを考えようとした。しかし、そう思えば思うほど頭に浮かぶのは明朝に迫った手術のことだった。明日になれば、自分の中から”女”の部分がひとつ消えてしまう。それを考えると、胸がしめつけられるようだった。

そして・・・無念

 手術当日は午前9時ごろ、母が来てくれた。しかし、この日の母はいつになく寡黙だった。黙々と病室に寄せられた見舞いの花の整理をする母親から、結局ねぎらいの言葉はなかった。
 声をかけてくれたのはひと言、彼女が手術室に向かうとき。
「いってらっしゃい」 娘も明るく、
「いってきます」 と答えた。
 手術室で麻酔をかけられるとすぐに意識はもうろうとしていった。
 目が覚めたのは、手術が終わって1時間くらい経った午後1時ごろ。個室には誰もいない。そのときは、まだボーッとしていて、痛みもなく、何事もなかったかのように思えた。でも、意識が戻るにつれて「ああ、なくなっちゃたんだなあ」としみじみ感じた。
 夕方、摘出した4つの筋腫を写したインスタント写真を持った母が病室にきてくれた。海綿体のようなコブ状の白い筋腫が真っ赤な血にまみれているその写真を、小池さんは最初直視できなかった。
「これが苦しめていたんだね」
 母がポツリとつぶやいたやさしい言葉に、小池さんはとにかく手術が無事済んだことを実感する。
 しかし、小池さんが感傷に浸っている時間はまったくなかった。
 手術の2日後には、党広報の実務打ち合わせのために、病室で会議を始めていたのだ。
「結局、いままでの生活と何も変わっていないんだなと思いました」
 それどころか、子宮を失った現実を実感せざるを得ない状況が小池さんを悩ませた。というのも彼女の病室の2部屋隣が分娩室。斜め向かいには、新生児室があったのだ。
 医師から、できるだけ早く自分の力で歩くよういわれたため、小池さんは、点滴のスタンドにつかまりながら廊下をスリ足で歩いた。ゆっくり進む彼女を、大きなお腹を突き出した妊婦が追い越していく。新生児室からは否が応でも、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声が、耳にはいってくる。妊婦や赤ちゃんを前に微笑み合う夫婦の姿も、目に飛び込んでくる。
「つらかったですね。つらすぎて手術後10日ぐらいは、一切、新生児室のほうを見る気がしませんでした。別世界にいるような感じで、もう素通りしてました・・・。
 悔しかったというか・・・。そうですね・・・悔しいという言葉になるんでしょうね」
 そういって、小池さんはうつむいて、しばし黙り込んだ。その表情には、改めて、子供を二度と生むことのできない無念さが漂う。
 無念さが怒りに変わったりもした。病院内の廊下でルーズソックスをはいた茶髪の女子高生数人が、煙草をプカプカと吸っているのを見ると無性に腹が立った。「本当に”あんたたちっー”って、ビンタを食らわしてやりたくなりました。ああいう子供たちが、これから先、ちゃんとした母親になれるんだろうかと、本気で心配になりましてね」
 さらに子宮を摘出して、議員として、新たな考えも芽生えた。
「自分が痛い目に遭って思ったのは、この日本社会は、どこか間違っているということ。子宮筋腫で子供が生めない女性たちが増えているのも、社会に矛盾があって、ストレスが多いからではないか。それが少子化現象にも結びついていると思う。今後は、年金などの問題についても、それを前提にしたプログラムに取り組むべきでしょうね」
 小池さんは少子化現象を否定するつもりはない。だが、「生む」「生まない」という選択肢さえ与えられなくなった彼女は、そのことに話が及ぶと唇をギュッとかみしめた。



コラム・メニューに戻る