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逆風満帆(下)

朝日新聞 2007年12月22日





底流にある憂国の情
 小池百合子の父勇二郎(85)は、兵庫県芦屋市で石油関連の貿易会社を営んでいた。自宅の書棚には中東に関する専門書が並び、父は幼かった小池と兄に口癖のように「石油資源に恵まれない日本は、つねに中東情勢に揺さぶられてきた。戦略を持たないといけない」と語りかけた。
 祖父も米シアトルで修業した貿易商。若き日に単身でのエジプト留学を決行した小池は「『世界を見てやる』は3代にわたるDNA」と話す。
 勇二郎には別の顔もあった。同い年生まれで沖縄や北方領土の返還を歴代政権に働きかけたロビイスト末次一郎の支援者だった。69年には衆院選に立候補。惨敗した挙げ句、三島由紀夫の「盾の会」にも肩入れして身上をはたく。
 「アラブ」も「政治」もつねに身近にあった小池。「中東、エネルギー、安全保障、経済。私の政治家としての背骨は、それらを総合し、日本を守ることにある」という。
 独自の外交・安保観は留学時代に芽生えた。73年に第4次中東戦争が勃発。灯火管制下のカイロで、耐乏生活を強いられた。そんな小池に、さらに影響を与えたのが、かつて「防衛庁の天皇」の異名をとった海原治(故人)だ。
 海原は旧内務省出身で自衛隊の前身、警察予備隊の創設にもかかわった。自衛隊の主力戦闘機の後継機選定をめぐり、激しいつばぜり合いを演じていた佐藤栄作と河野一郎の政争に巻き込まれ、防衛庁長官を更迭される。その後、天下りはせず、軍事評論家となった。
 小池が知己を得るきっかけは、79年から出演していたテレビ番組「世相講談」だった。講演などで不在がちになった竹村健一に代わり、海原も司会進行に加わる。「常に世界的な視点で物事をとらえた。ときに日本の国防に辛辣な意見を浴びせたが、相手を論破するだけの論理性があり学ぶことが多かった」と振り返る。06年に亡くなった海原との親交は数年前まで続いた。
 日本が非軍事化から再軍備へと動いた激動の時代に、日米防衛協議の最前線に立った海原。その薫陶を受けた小池が政治家として揚げる外交・安保政策は、タカ派的と受け止められがちだが、底流にあるのは「憂国の情」だ。

「日本が変わるまで」
 政界入りした小池は、絶えず外から自民党に揺さぶりをかける小沢一郎を「政治の師」と仰いだ。そして小泉純一郎を「要所要所の勝負どころで抜群の政局観を発揮し、内側から自民党を壊した希有なリーダー」と評価する。
 15年あまりの政治家人生のうち、野党であることも長かった小池が2人に学んだのは、どんな高邁な政策でも、それを具現化する権力過程に乗せなければ意味がないということだ。03年、小泉内閣の環境相に起用されて以降、「閣僚のできることは、政務次官の何万倍」と、権力の重みを身をもって知った。
 政界の荒波を生き抜いてきた小池の最大の武器は、情報に対する嗅覚の鋭さだろう。
 小池は今まで、ベンチャー企業の社長のように「どんな仕事も他人任せにしないで自分でやってきた」という。しかし、自分が掲げる政策を実現するには霞が関の中央官庁をも動かさなければならない。重要な情報ほど抱え込み、一筋縄ではいかない官僚組織に、小池は、どう対峙してきたのか。
 「まず、自分が情報のメルティングポット(るつぼ)になること」。安倍内閣の安全保障担当の首相補佐官時代に試みたことでもあるが、たとえ深部に達しなくとも、投網をかけるように幅広い方面からの情報収集に徹する。「『あれを知っていますか』と水を向け、官僚に『えっ!』と言わせたらしめたもの。全体を見ているのは私だと」
 だが、同時に「State of Denial(告げられなかった真実)。相手が何を話さなかったかを分析することも重要」とも話した。
 安倍前首相が辞任表明した直後、小池は「小泉チルドレン」とともに、いち早く、小泉再登板に動いた。
 衆院解散・総選挙の可能性をにらんだ動きも始まる中、政治家としての今後を問うと、肩すかしを食らわすかのような答えが返ってきた。
 「国会議員は10年と決めていた。10年で日本が変わると思ったから。その渦中にいたかった。でも、違った。だから、もう少し続けるまでのこと」
 小池の「State of Denial」に周囲はさまざまな思いをめぐらせる。それが、政治家・小池百合子を、実像より一回りも二回りも大きく見せている。





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