連載「妹たちへ」A
日経ウーマン 2009年 1月号
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日経ウーマン 2009年 1月号
20代前半でアラブ、中東を経験し、後半はテレビを中心にマスコミの世界を経験した私は、30代を前に悩み始めました。日本テレビで評論家の竹村健一氏のアシスタントを務めながらも、「これでいいのか」と自問自答する毎日が続きました。 あえてアラビア語という特殊な言語を選んだ私です。たしかに特殊だからこそ、中東で事件が勃発したり、石油価格が暴騰した場合には、通訳や翻訳者として重宝がられました。皇太子妃時代に、現在の皇后陛下の通訳を務めることもできました。 ところが、中東情勢が落ち着くと、そのたびにニーズは激減してしまうのです。 ストライク・ゾーンが狭い。 私は、自分自身をそう分析しました。 「スペシャル性は必要だ。しかし、ジェネラルな基礎がないと、かえって危険かも」 そんな考えから、自らの新たな基礎として経済に的を当てることにしました。きっかけは、79年に東京で開かれたサミットです。日本語では先進国首脳会議と約されていましたが、英字新聞では「ワールド・エコノミック・サミット」として報道されています。 そもそもサミットは第一次石油危機による世界経済の混乱に対し、75年にフランス大統領が主要国の首脳に呼びかけて始まったものです。世界経済が主要課題だったからこそ、エコノミック・サミットなのです。 最近の石油価格急騰でわかるように、石油という社会の血液が価格変動を起こせば、世界経済に影響が出ます。それまで通訳の現場で石油という「点」から世界を見渡した私は、逆に経済全体、「面」から見てみようと発想を変えることにしました。 カイロ大学では経済学も必須科目でしたが、退官前の教授がすべての学生に「優」の成績をくださったことで救われました。あらためて経済について学びたいと考えた私はゲスト出演する経済学者や経営者の皆さんから生きた経済を教えていただくようになりました。親戚の経済学者にも教えを乞うたこともあります。 そうこうするうちに、ある日、突然、テレビ東京のプロデューサーを名乗る人から「会いたい」と連絡を受けました。それは新番組の司会進行役への誘いでした。 「待てば海路の日和あり」ではありませんが、経済というジェネラルな分野に挑戦しはじめたところに、向こうからチャンスが飛び込んできたのです。 それは月曜から金曜の午前中に30分間、株価とマネーに関する情報を伝える番組でした。おまけに毎週土曜日に放送する企業経営者のインタビュー番組も任せたいというではありませんか。 なによりも、これまでのアシスタント業から、自分で番組を仕切る立場となることは魅力でした。竹村氏にも相談し、日本テレビからテレビ東京に移ることにしたのは、私が33歳の時でした。 新番組では、日本経済新聞の証券担当記者と今日の市況をやりとりしなければなりません。一度も株取引などしたことのなかった私は、株式の専門用語も、株のツボなどさっぱりわかりません。おまけにこれまでの番組では30分間ずっと株価ボードをカメラでなめるように映し出す方式だったのが、新番組に変わって株価の紹介は前半の10分ほどに短縮されました。 意気揚々と新天地に乗り込んだ私でしたが、番組を見ていた視聴者から苦情が殺到しました。自分の財産を投じている視聴者です。熱心さが違います。 株式番組を担当したことで、新聞や経済指標の読み方から、国際政治の流れへの興味の持ち方がガラリと変わりました。インタビュアーを務めた『トップ登場』に出演する経営者から聞く経営方針や、社長の人柄を通じ、『うん、この会社はイケル』といった判断までするようになりました。 ちなみに『トップ登場』は私が政界に転じるまでの6年半にわたって担当し、300人を超える経営者と出合う機会を与えてくれました。特に、自ら起業した創業者は魅力溢れる個性や発想、実行力の持ち主が多く、素晴らしい学びができました。 この頃は、もっと経済の現場を知りたいとの思いから、城山三郎氏や堺屋太一氏の経済小説、事件モノでは清水一行氏のほとんどの著作を読み漁ったものです。 そのうち「キャスター」「財テク」といった言葉が定着するようになり、早朝6時からの報道番組『ビジネスマンNEWS』のキャスターに選ばれました。そもそもアナウンサーではない私は人の原稿を読むのは苦手です。それも毎朝3時起きで、自分で車を運転して局入りし、後はフル回転です。 東京・中央卸売市場での火事のニュースを伝えた時には、「火が出て、現場は混乱し〜」を「へが出て」と読み間違いして、スタジオが混乱したこともありました。 しかし、この経験が半年後に始まった大型経済報道番組『ワールド・ビジネスサテライト』のキャスター抜擢につながります。 世界の三大金融センターである東京・ロンドン・ニューヨークを結び、最新の経済情報を伝えるコンセプトです。東京は日経新聞、ロンドンはロイター、ニューヨークはウォール・ストリート・ジャーナルと、各国のトップ情報企業がバックに控える本格派でした。 東西冷戦構造の崩壊、湾岸戦争、そして国内ではバブル経済崩壊後の混乱など、45分間の生放送では伝えきれないほど情報が押し寄せます。国境を越え、時々刻々に推移する経済の現場を生で伝える緊張感はなんともいえないものでした。途中で回線が途切れたり、急に重大ニュースが飛び込んできたりと、反射神経が試される毎日でした。これ以上のやりがいはありません。 夜11時台はニュースの激戦区です。他局が幼児連続殺人事件から番組を始めるところを、WBSはドイツの金利変更をトップニュースとして伝えました。すべての人が同じ情報を追うわけではありません。私はWBSの独自路線が気に入っていました。視聴率競争だけではない、質の競争があってしかるべきと、今も感じています。 91年の湾岸戦争の報道では、アラビア語を最大限に活用しました。バグダッドに飛び、日本アラブ協会事務局長として邦人人質の解放交渉にあたりながら、キャスターとしてニュースを伝える綱渡りもしました。 湾岸戦争での仕事ぶりが認められ、ATP特別賞などを受賞することもできました。 アラビア語というオンリーワン路線があらためて日の目を見たのです。 T字型の生き方があります。誰もが知っている、ジェネラルな横軸。それにオンリーワン、専門性で掘り下げる縦軸。この両方が揃うと強みになります。 添え物のアシスタント時代の悩みがあったからこそ、自分自身を見つめ直すことができました。オンリーワンのアラビア語とジェネラルな経済が縦軸と横軸となって30代の私のT字が完成していったように思います。 |
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