92年5月6日。ある月刊誌のゲラがマスコミ界を駆け巡りました。熊本県知事を務めた細川護熙元参議院議員が新党結成を宣言したというものです。
さっそく私がキャスターを務める「ワールドビジネス・サテライト」のゲストとして細川氏をお招きしました。初対面でした。
当時の日本は、バブル崩壊で経済危機に直面し、湾岸戦争への対応を巡る国会はいつもの神学論争が続き、思考停止状態。世界は東西の冷戦構造が崩壊し、新しいパラダイムの模索が続いていました。
そんななかで新党の結成はきわめてタイムリーなものに思われました。
数日後、友人の新聞記者から、「細川氏と会ってほしい」と声がかかりました。取材のつもりで出かけたところ、「7月の参院選に日本新党から出馬してほしい。無理なら、誰か女性候補を紹介してくれないか」とのこと。特に熱弁をふるって、人を説得するわけでもなく、淡々とした口調でした。
「お殿様なんだ」と妙に感心したものです。
現役バリバリのキャスターでしたから、突然、選挙に出るわけには行きません。そこで、友人の女性数人に声をかけてみましたが、いい返事はありません。そろって「新党が確実な組織になったら、考える」とのことでした。こういう状況がヤバイ。
なぜか義侠心のような感情が湧き上がり、リスクを顧みない私が登場するのです。
「新党なのだから、組織が完全であるはずがない。完全でないから、やりがいがあるだろう。これは一種のベンチャーだ。それに、国が悪い、政治が悪いと批判するのは誰にでもできるが、誰かが状況を変えなければ、不満が続くだけ。よし、立ち上がろう」
J・F・ケネディの「国に何をしてもらうかを問うのではなく、私は国に何ができるかを問え」を実行したのです。
次の瞬間、私はテレビ局の担当常務に「すみません。コイケは飛行機事故で死んだと思ってください」と電話でキャスター降板の意思を告げました。39歳の決断でした。
その後の騒ぎはご想像の通りです。
テレビカメラに向かって、何百万もの視聴者に語ることには慣れていても、街頭で演説するのは初めてです。誰彼となく手を振るのも初めての経験です。恥ずかしげに、ちょろちょろと手を振っていると、間違えてタクシーが止まる始末でした。
わずか数週間後の選挙結果は315万票を確保し、細川代表と私を含む4人が当選すると同時に、次なる闘いの準備を始めました。小さな所帯ですから、政策作り、広報戦略、衆院選の候補者選びにお茶汲みと、ありとあらゆることをこなします。
候補者と面談し、「はい、あなたは埼玉のこの地域で出馬してください」と選挙区を決定します。勢いのある政党には候補者候補は面白いほど集まりました。
政策の基本は「改革」です。政治改革、行政改革、地方分権、規制緩和など、しがらみにとらわれた政党では打ち出せない斬新な政策を次々に描きました。これらの政策は小泉改革の路線と重なります。
しばしば私は「政党を渡り歩く」との批判を受けますが、政策を変えたことはありません。政党は政策を実現するベースにすぎません。国民は政党を支持するのではなく、政策を支持してくれるのです。
東京都議選、出身地である兵庫県での市議選など、着々と勝利を重ねながら、次なる最大の闘い、総選挙の準備を進めました。
連日連夜の奮闘で、まともに睡眠時間を確保できる日はありませんでした。
目的は一つ。「政権交代」です。
二大政党制の確立で、金権政治の打破や政治の緊張感をもたらし、国民に選択する権利を持ってもらうためです。目標を果たすまでは髪を切らないことにしました。
「おすべらかしにでもする気か」とからかわれましたが、翌年7月の総選挙で早々と目標を達成しました。
細川代表が総理大臣に就任し、私は総務庁(当時)の政務次官に抜擢されました。携帯電話や地ビールの規制緩和、地方分権など、自らの政策を実現する醍醐味を味わいました。
政治改革の一環として、選挙制度を小選挙区制へと改革したことで、日本新党から新進党へと政党の合従連衡につながります。
その前に、細川政権がわずか10ヵ月ほど、後を継いだ羽田政権も2ヵ月で崩壊しました。北朝鮮情勢やコメ市場の開放など、政権内の社会党と政策を一致させることで困難な状況が続いたからです。次の瞬間、自民党と社会党という55年体制下の与野党が村山政権を樹立。政治のダイナミズムもここまでやるのかと、驚きの連続でした。
野に下った後は、新進党の結党大会のプロデューサーとして、巨大な幕で客席を包み込むなど、新鮮さを強調する広報を担当しました。テレビCMなど、キャッチコピーから絵コンテまで、小沢一郎党首のイメージを和らげる工夫にも腐心しました。
その後、環境大臣として始めたクールビズも、発想から、CMまで自分でプロデュースする点では同じです。
どのような政策も、国民の理解や共感がなければ効果を生み出さないものです。
大事に育てたはずの新進党でしたが、97年暮れ、「安全保障政策で一致できない政党はない」として小沢党首自らが壊してしまいました。党首が離党するというのです。
小沢氏の言葉に説得力を感じた私は、自由党の設立に参加しました。小渕政権では自民党と自由党との連立政権が成立し、私は経済企画庁(当時)の政務次官を務めました。消費者手続法案を審議する最中、また政権離脱の動きとなり、さすがの私も連続するドタバタ劇に疲れてしまいました。
結局、居残り組で保守党を立ち上げました。参議院議員に当選してからというもの、正月休みもなしに働き続けたこともあり、体調も優れません。実際、盲腸で開腹手術を受けた半年後に子宮筋腫の手術と、体はズタズタ。子どもを産めなくなった時には、「私はいったい何をしてきたのか」と虚しさを覚えずにはいられませんでした。
退院後も、政権与党の小政党の一員として、20以上の肩書きをこなしました。
その時です。自民党の総裁選に「自民党をぶっ壊す」と威勢のよい言葉で小泉純一郎氏が当選したのは。小政党で日々の仕事を器用にこなすより、自民党という大所帯で、改革の手伝いをすべきと判断しました。
間もなく環境大臣という大舞台が回ってきました。中東、エネルギーといった自らの専門分野を裏返せば、地球温暖化対策の答が出てきます。クールビズやエコバッグ、風呂敷など、身近なテーマで環境問題を国民的テーマとし、ブラックバス問題や石炭火力発電計画を阻止するなど、思い切った仕事をしました。「あの時、決断しておけばよかったのに」と後悔しないためです。
防衛大臣で事務次官を退任させたのも同じ思いです。私の歩みは「女性初」がつきものですが、後続の妹たちが歩みやすい道とするのが、真の勤めと肝に銘じています。
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